「医師、歯科医師恐怖症だった」(5)

人には出会いと離別がある。1968年(昭和43年)3月に大学進学のため、故郷知覧を離れた。その時、父が「これからお前には何も言わない。」と言った。すべての行動の責任は自分で持てということだろう。その年の10月視察旅行で上京してきた父と最初で最後の親子喧嘩を酒に酔っ払ってした。多分自分の父への甘えだったのだろう。翌年の1月24日深夜「チチキトク」の電報が届いた。交通事故による死だ。57歳の生涯だった。丁度その日成人祝にと一万円の送金を受けていた。
五人の子供を育てるために母と必死に働き、五人のうち四人を鹿児島市内に下宿させ高校へ、うち三人を関東の大学に進学させた。農家の仕事でよくできたものだと思う。田畑の切り売りもしたようだ。私の名前は「東二」だが東京大学の「東」をとったものだ。悲しくつらい離別だった。

大学で準硬式野球部に入部した。その時の特に仲のよかった仲間が二人いた。MYとYTだ。彼らとの悪行の数々はまた書くこととしたい。
MYは薬学部を卒業後、持田製薬に入社した。人生の分かれ目は不思議だ。武田薬品に親せきがいて、その誘いで関係会社の天藤製薬に転職した。大阪に転居だ。実家(千葉県市原市)から大阪に帰る時、事故にまき込まれた。
日航機の御巣鷹山墜落だ。その時私は近くの居酒屋で一杯やりながら夕食を食べていた。テレビの上画面に速報が流れ日航機事故を報道した。多くの犠牲者がでた模様だと。自宅に帰り、深夜MYの弟から電話があり兄家族四人が犠牲にあったようだと。1985年(昭和60年)8月12日没。わずか37歳である。あの時、天藤製薬に転職していなければ…。

YTは教育学部を卒業後、東京教育大学(現筑波大学)の大学院に進学した。教育心理学を専攻していた。研究者にでもなるのかと思っていたら地元鴨川市の小学校の教員になった。YTは大学時代からアルコールが入ると中毒みたいに飲み続けた。最後に会った日も、昼間でアルコールは入っていなかったが、話す言葉の呂律がよく回らない。これはアル中だなと思った。「お前、大丈夫か。」と言ったら、「大丈夫だよ。」と。どうもアル中で入院していたらしい。それが原因で教員も辞めたようだ。妻子は呆れかえり、家を出て行ったらしい。母親は絶望し自殺したらしい。いろいろなことが脳裏を駆け巡った。YTの母親のこと、祖母のこと、奥さんのこと。帰ったら奥さんに電話してみようと思ったが、住み家が分からず実現しなかった。それから数年後、再訪したら家の入口のドアが釘で固定され、閉鎖されていた。隣の家に行き、事情をきいたら、寝床の中で孤独死をしていたと。何ということだ。50数年の生涯を閉じた。YTのアル中の原因は「身体的なもの」と「精神的なもの」だと思うが、何が原因かいまだに理解できない。友人といってもそんなものだ。
その二人と家族の墓参りには年2、3回は必ず行く。彼らとの馬鹿げた行動は次の機会に書くことにするが、年とともにその思い出が鮮明に蘇る。

職業柄多くの死に遭遇している。あの時、医師の診断を受けていればと思う様なケースも多々ある。
母は2009年(平成21年)4月頃下血(胃がんで胃の粘膜が破裂して出血したらしい。)し、鹿児島県枕崎の病院に入院した。9月に亡くなるまで毎月見舞に帰った。9月7日午前9時頃目の前で息を引き取った。隣にいた兄が「ワー」と泣き出した。
いろいろな想いがあり「馬鹿野郎。いい歳して泣くな。泣く位なら生きている間に孝行しろよ。」と思ったものだ。90歳と6ヶ月の生涯だ。

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