「医師、歯科医師恐怖症だった」(6)

2011年(平成23年)5月9日。高等学校の開校記念日に記念講演を依頼され、講演した。その前年は私より8年先輩のO氏(その時は参議院議員副議長、元厚生労働大臣)で、その後ということもあり、非常に緊張した覚えがある。O氏は東京大学を中退し、世界放浪の旅をし、地元紙にその行動ぶりが報道されていた。私もその刺激を受け、せめてアメリカ大陸横断位はしたいと1970年(昭和45年)7月5日から8月31日までアメリカに滞在し、グレイハンドのバスで大陸横断した。O氏に比べれば小さな旅だ。
私の出身校は鹿児島の公立校で最初の中高一貫教育校になり、総勢1,200人程度の生徒の前で「人生は選択の集大成」という偉そうな演題で講演をした。その時の瞬間、瞬間における選択の連続で人生が決まるという意味のつもりだが、一方で自分がそれほど偉そうなことが言えるのかという思いもあった。

親から背中を押された選択、そうせざるを得ない消極的な選択。その時の瞬間的な選択は人生の中におそらく何百回もあるだろう。その選択の集大成が人生であろう。あの時ニクソンショックがなく、N社に入社したら。あの時健康診断を無事通過しM社に入社したら。S社に入社して別な人材の下で働いていたら。
1976年(昭和51年)6月頃、S社を退職しようと退職願いを提出した。研究所所長、担当常務から慰留された。それでも翻意しないことが解ると、別な部署の取締役が社長との面談を画し、皇居近くのホテルの和食の部屋で食事をしながら面談となった。「そんなにその部署(研究所の一部門)が嫌だったら、部署替えをし、海外支店(具体的にはアメリカ)にでも行ったらどうだ。」と言われた。慰留をしていただいた会社幹部の方々への無礼も顧みず、同年9月末日でS社を退職した。社長以下役員の方々には本当に申し訳ないという思いである。幹部の方々の思いは、私への評価ではなく若者が去ることへの危機感だったと思うが、私にとってその後の人生において多くの方々に慰留されたという事実は大きな支えになった。

会社を退職した年の3月14日に長女が誕生していた。その7年後の1983年(昭和58年)5月15日に長男が誕生した。二人とも千葉市幕張のS産婦人科で生まれた。二人とも相当の難産だった。十年位前にS産婦人科の院長と職業安定所で遭遇した時、挨拶をしたら二人のことをしっかり覚えていた。先生にとっても相当の難産だったのだろう。特に長男は逆子で生まれ、右腕が動かないことに看護婦さんが気付き、近くの整形外科の先生の往診を受けた。
生まれたばかりでレントゲンで検知できないが恐らく骨折だろうと。生まれたばかりの幼児の右腕が吊られ、下に小さな重しがついている。起きている時はそれを外そうとよく泣きじゃくっていた。1ヶ月位の処置だった。その間、看護婦さんに「整形の先生は様子見に往診に来てくれているのでしょうか。」と質問すると、「看護婦さんが来ています。」との返事だった。「かーっ」として、整形外科の先生のところに押し掛けた。「申し訳ありませんが、まだ一歳にも満たない幼児が今後どうなるか解らないのに往診をしていただけないのですか。」と詰問した。「職業的専門家として恥ずかしくないのですか。」。それ以来、毎日往診していただいたようだ。
長男にはもう一つ悩みがあった。産婦人科の先生が、「男性の部分が小さい。」と。産婦人科から退院し、JR渋谷駅からどの様にして行ったのか記憶していないが、国立小児科病院がある。その病院の泌尿器科に行き診察を受けることにした。待たされること約2時間位で診察室に入り、事情を話すと長男のその部分を指ですっと押え「ほら単に埋もれているだけですよ。全然心配いりませんよ。」とわずか数分の出来事。長男はその後、東京六大学で野球をやり、子供も二人もうけている。

長女が生まれたとき会社を辞し、長男が生まれたとき事務所を開設した。人生最大の積極的選択は、子供達の誕生につながる。

Categories: オピニオン

Tags: ,

Leave A Reply

Your email address will not be published.